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黒田如水
〜秀吉の知恵袋〜

 羽柴秀吉の両翼軍師の一翼、黒田官兵衛。もう一翼の竹中半兵衛とはちがい、野心多き人物として描かれることが多い。天下を望んだのは確かであろう。関ヶ原合戦で東軍と西軍で日本が真っ二つに割れる中、一人九州で決起し、第三勢力として天下に覇を唱えようとした。だが関ヶ原で、わずか1日で東軍は大勝する。官兵衛は事がおわったことを知ると、うそのようなあきらめのよさで、再び隠居の身に戻った。 この見事なまでの引き際の良さはどこから来るのだろうか?

 時代は官兵衛より数代遡る。1511年、官兵衛の曾祖父である高政は流浪の末、備前国邑久郡福岡郷に落ち着く。この地で、高政は黒田家伝承の目薬(玲珠膏)を販売して、細々、生計を立てた。高政亡き後、祖父重隆も家伝薬でどうにか暮らしをたてていたが、 豪族である浦上則宗の侵入で福岡郷を逐われ、播磨の姫路へのがれる。しかし、土地の大百姓、竹森新右衛門や広宗大明神の神主、井口太夫の知遇により目薬が大いに売れ、金貸し業を経て豪族への道を歩んでいく。

 数十年のときを経て、天文12年(1543年)重隆が世に出るときが来た。重隆は、嫡男・職隆に、家臣団を与え近隣で悪名高い豪族、香山重道を襲わせた。初陣であったにもかかわらず、職隆は首尾良くその首を取る。当時、香山氏と敵対していた御着城主、小寺政職は大いに喜び、職隆は小寺家に客将として迎えられた。職隆は明石城主、明石正風の娘を娶り家老となり、姓を小寺と改め、姫路城の守将となった。黒田氏は職隆によって、ようやく一城の主となったのである。そんな中、天文十五年(1546年)11月29日、姫路城で後の黒田如水(官兵衛)である、万吉が生まれる。

 そして永禄4年(1561年)万吉は16才で御着城主、小寺政職の近習となり、父・職隆に従い近在の土豪を討伐し、17才の初陣で官兵衛と称し、名を万吉から孝高と改めた。22才で政職の姪で有る播磨志方城主、櫛橋氏の娘を正室に迎え、若くして家督を継ぎ、姫路城主となり、小寺氏の家老に任じられる。父・職隆は重隆から若くして家督を譲られた。重隆が職隆の器量を自分以上と見たからであった。職隆も同じように、四十半ばで官兵衛に家督を譲ってしまった。同じように官兵衛の器量に満足したのであろう。黒田氏のこの一種の欲のなさ、潔さはこの一族の美徳であり、また領民からも慕われていた。

 永禄12年(1569年)、官兵衛はその名を近隣に轟かせる。以前、祖父・重隆も仕えた事のあった、播州館野城の赤松氏が三千余の軍を率いて姫路城に攻め入って来た。対する官兵衛の兵力三百足らず。それにも関わらず、城を出て戦い、赤松勢を軽く一蹴してしまう。これ以後、官兵衛は小寺氏の家老として頭角を表わす様になった。 天正3年(1575年)織田と毛利の、二大勢力の狭間に有る小寺氏はどちらにつくか決断せねばならなかった。御着城に官兵衛をはじめ重臣達が招集され、織田に味方すべきか、毛利に従うべきかを談じた。官兵衛以外の重臣達は、当然のごとく毛利に従うべきと進言した。しかし官兵衛は、毛利の保守性に比べ、信長の先見性に満ちた政策・戦略を数々述べた。そんな官兵衛に、他の重臣達は黙るしかなかった。結局、織田に味方する事になり、官兵衛自身が羽柴秀吉の申次で、信長に対面する。この秀吉が申次だったことが官兵衛の未来を大きく変えた。中国征伐のため、播磨に下って来た秀吉を迎えた官兵衛は、自らの居城であった姫路城をあっさりと秀吉に提供してしまう。このあたりのあっさりさもやはり只者ではない。

  しかし、官兵衛の人生観を大きく変えることになる苦々しい経験が、官兵衛を待ちうけていた。織田配下の荒木村重が、石山本願寺の誘いに乗り背いた上に、官兵衛の主人・小寺政職も荒木村重の誘いに乗り毛利方と通じていたのである。いまだ旧体制から脱しきれていなかった小寺氏は、これを機に官兵衛とは袂を分かつ。官兵衛が主家のためを思い、織田側に着いたことが、結局小寺氏を滅亡へと誘うことになってしまった。官兵衛の器量が小寺家で抜きん出ていすぎたための悲劇といっていい。それでも官兵衛は、翻意を促すために、単身、御着城の小寺政職そして荒木村重の許へ出向くが、政職には無視された末、村重に捕らえられ、有岡城の牢に幽閉されてしまう。

 官兵衛からの連絡が途絶えたのを不審に思った信長は、人質となっていた官兵衛の一人息子・松寿丸(後、長政)を殺すように命ずる。だがしかし、情に厚い竹中半兵衛の身を呈した計らいにより松寿丸は一命を拾う。 天正7年(1579年)10月 有岡城は遂に陥落する。幽閉されていた官兵衛は栗山善助に救い出されるも、陽も射さない暗い牢内で、悶々の日を過ごした官兵衛は両膝は曲がり、立つ事も出来なかったと言う。だが、この幽閉期間中、官兵衛は己の「知謀」の限界を知り、なによりも「生命があること」の重大さを生まれてはじめて認識した。救出後、様々な情報を知った官兵衛が受けた衝撃の中で最も大きかったのが、命を賭して一人息子・松寿丸の命を守った竹中半兵衛の病死であった。これをきいたとき、官兵衛は「顔を腹へ掻いこむように垂れて、激しく泣いた」と言う。官兵衛は半兵衛ほど物事に澄みきった性格ではなかったが、その志を同じくすることがあり、よき僚友であった。

 これ以後、歩行困難となった官兵衛は秀吉の授けた、陣輿に乗って行動した。官兵衛の知謀を、秀吉はまだまだ必要としていた。秀吉は『その方を我が弟小一郎同然に親密に思っている』と手紙に書き記し、官兵衛に親愛と友好の念を表している。やがて、信長が本能寺の変に倒れ、歴史に名高い秀吉の中国大返しの頃には、官兵衛は織田家隋一の大軍団に成長していた秀吉陣営にあって、病死した半兵衛に代わって『参謀』の地位を不動の物としていた。その証拠に直前に難儀していた備中高松城攻めに対して、官兵衛の提案であり、莫大な費用が掛かる「水攻め」がすんなり採用されている事でも証明される。一旦は主君の死に深く悲しんでいた秀吉だったが、官兵衛の励ましと献策によって立ち直ると敵対していた毛利と和議を締結、素早く上方を占領しつつある明智軍を撃破して、天下人としての道を、着実に歩みはじめる 。

 秀吉の天下が定まったとき、官兵衛のこれまでの働きは当然一国の恩賞に値するものであったが、与えられたものは、一万石の加増(前と合わせて三万石)にすぎなかった。秀吉は、あまりに頭の切れすぎる官兵衛に恐れをいだいたのである。信長の死について、官兵衛は「めでたき事、出で来るかな。」と秀吉に言った。秀吉の背筋は寒かったことだろう。官兵衛の言葉は秀吉の心の中そのままだったのだから。事実、官兵衛は秀吉の心を読んでいた。それゆえに官兵衛は、敢えて冷遇に甘んじた。

  天正13年(1585年)、四国征伐において、官兵衛は軍監として参加し、知謀を発揮した官兵衛の作戦は大成功に終わる。この戦での恩賞も、他の重臣には充分与えながら官兵衛には、なんらの恩賞もなかった。そのかわりに秀吉は、九州平定後に一国を与えると告げる。官兵衛を遠ざけたいのは明らかであった。そして九州平定後、秀吉が官兵衛に与えたのは、豊前の内六郡で、12万3000石にすぎなかった。勲功一番とみなされる官兵衛の論功行賞は、あまりににも少なすぎた。秀吉はやはり、官兵衛に天下取りの野望を見ていたのだろうか。

 秀吉が御伽衆に問い掛けたと伝わる話では、「わしが死んだら、天下を取る者は誰か」の問いに徳川、前田、毛利といった名が、それぞれの口から出たが、秀吉はうなずかず、やがて 「黒田官兵衛孝高がとるわい」と言ったという。官兵衛は、この話を、親しい僧侶から聞かされ、隠居を決意したと言う。このとき家督を長政(21歳)に譲り、名を黒田如水軒と改めた。如水このとき、いまだ44歳。

 しかし秀吉は、如水の隠居を許さなかった。秀吉は如水を恐れつつも、まだまだ如水の知謀を必要としていた。やがて、秀吉が死に再び天下が騒乱すると、秀吉の下で天下の絵を描いた如水は、今度は自分で天下の絵を描く野望に身を焦がす。長期化する中央の争いを見越して所領のある九州全土を手中に収め、一世一代の大勝負を仕掛ける。電光石火の勢いで九州を切り取り始める。だが、西軍が関ヶ原で敗れ、如水の夢は終った。切り取った九州の領地を、あたかも家康のためにやったが如く、そっくり家康に返上し、そ知らぬ振りを決めつけた。この変わり身の早さはさすがである。

 息子の長政は家康に「この勝ちは長政殿のおかげでござる」と、その手を三度も押し頂かれた。得意になった長政は如水に褒めてもらおうと、このことを詳しく話すと、如水は苦い表情で「手を握られたのはどちらの手か」と聞いた。長政が「右手でございました」と答えると、如水は「すると、そちの左手はいったい何をしていた」と叱った。長政は絶句するしかなかった。

 隠居の身に戻った如水は、大宰府の村舎に住み、まるで小百姓の隠居のようにしてすごしたという。中途半端な欲を持つことの愚かさを如水は知りぬいていた。

 如水は58歳まで生きた。官兵衛の号は「如水」、水の如く。その号はどことなく半兵衛を連想させる。




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